今、「幸福の要素」を沢山持っているのにそれに気づかず(不平不満を言って)生きている人が多い?ように感じられます。
体で言えば、目が見えるのは当たり前!と思って、喜びも感謝もしない人が多いのではないでしょうか。
見える、歩ける、食べられる、大小便が出る、考えられる、眠れるなど、みな一応「当たり前」でありますが、これらが出来なくなったときは”大変”であります。
<これら”当たり前”の条件は、個人でも、地域社会でも、国家でも、地球でも、すべてに当てはまることであります>
「当たり前の有難さ」を自覚し認識し、そこに日々「喜びと感謝」を見出す人はシアワセであり、「当たり前のシアワセ」を自覚できない人は「幸福盲」と言っても良いのではないだろうかと考えることであります。
<これは、私のオリジナルか?いつかどこかで聞いた言葉が耳に残っていたのか?>
前回、「幸福の条件」について申し上げましたが、それらがみな揃うのが望ましいと思いますが、「一つあってもシアワセ」なのではないでしょうか<それも無い!と思ってみてください>
その「一つのシアワセ」を喜べる人は”幸せな人”であり、「得ていないシアワセ」を嘆き不満を言う人は”フシアワセ”な人ではなかろうか・・・と考えることであります。
”私は不幸だ!”と言っているひとでも、「心の目を開けば」今そこに「シアワセの要素」は沢山あるはずであります。
いいほうを見て喜び感謝するか、良くないほうを見て不平・不満・愚痴(嘆き・恨み??)
の日々を送るか・・・が、それぞれの運命を構成するのではなかろうかと考える昨今であります。
<今、同じ人間で、いいものが半分、良くない(好もしくない)ものが半分あるのが「人間」ではないだろうかと感じさせられています>
判ったような、判らないようなことを言っていますが、「人生」「シアワセ」について悩みをお持ちの方の
わずかな指針・参考になればシアワセ!と思っています。
私も、日々努力中であります。
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