2008年8月22日金曜日

「しあわせ」について (4)

「しあわせ」について、私のン十年の勉強・思考・経験・見聞などから得たものを書いています。
「縁」があり、「人生・幸せ」について考え、悩み、模索していられる方のお目に留まり、いくらかでもお役に立てたらシアワセだなーと思いながら書いています<私の勉強にもなります!>

「しあわせ」は、自分が、自分の心で感じるものだと申し上げました。
折々に、自分の「こころ・からだ・人間関係・経済・社会的立場」などを考え(反省し)、いいものは伸ばす、よくないものは改める・・・ように心がける(努める)といいのではないかと考えます。

それから、「自分」が考え、行い、生きていく「自分の人生」でありますが、「自分中心」で、「自分のことばかり」考えていると、どうも「シアワセ」になれないように感じています。
「親を幸せにしたい」とか、「人のお役に立ちたい」とか、「人を喜ばせたい」!!と思って努力した人は、皆、立派に幸せになっていられるようであります。
<この考え方の押し付けも出来ませんが、お試しになってみてください。案外早く”いい結果”が出るかもしれません>

「健康で幸せ」になるもう一つの”コツ”は、「笑顔」ですねー。
どこの国の方でも、立派な幸せな人は、「いい笑顔」をしておられます。
「幸せになると”いい笑顔”が出る」 「”いい笑顔”がいつも出る人は幸せになれる」

「笑顔」を作るのに、そんなに沢山のカロリーは要りません。試して見てください。
でも、カロリーも労力もそんなに要らないのに、「いい笑顔」がスット出る人がある、顔がこわばってなかなか笑えない人がある。”運命”に支配されているのでしょうか?”遺伝”に支配されているのでしょうか? DNAのイタズラか?
その、笑えないところを笑う、笑顔が出ないところを出す!と運命が好転し「しあわせ」が出現するのですねー。
これは、一番体力の要らない、お金のかからない「幸せへの近道」だと思いますので、”なるほど”と思われた方はどうか実行してみてください。

笑顔を作るのに「はい、チーズ」とよく言われます。チーズもしないよりはマシですが、「頬の筋肉を上げる」ほうが「いい笑顔」になると思います。上がりやすい人、上がりにくい人とあると思いますが、「筋肉トレーニング!?」により簡単に上がるようになります。お試しください。

2008年8月15日金曜日

「しあわせ」について (5)

 今日は「夏休み(お盆休み)」で、ゆっくり出来ています。
お墓参り(お掃除)にも行ってきました。”わたしはお墓になんかいませーん”という歌がありますが、「死後の霊」はいるのかいないのか!!??
でも、何百年、日本人が伝統として行ってきた「先祖供養」は、子孫として当然の行為ではなかろうか・・・と私は受け止めています。
墓があり、折々に墓掃除、墓参りが出来るということは「しあわせ」ではないだろうか・・・と思いながら炎天下に草取りに汗をかいてきました。

北京オリンピックでは、コンマ何秒の差で、タッチの差で、何ポイントの差で、泣いたり笑ったりの競技が展開されています。
メタルは止めて、原点に戻って、優勝者はオリーブの葉の冠にしたらどうか・・・と思うことです。
世界一になることは、それはその道の人には素晴らしい凄いことだと思います。
が、「人間の(人類の)しあわせ」に対してはどうなのでしょうねー。
ヒットラー統治のベルリンオリンピックでは、「民族の祭典」「美の祭典」という映画が上覧されました。
まあ、「人類の祭典」としてとらえれば、それはそれとしていいのかもしれませんねー。

 このオリンピック競技に傾ける情熱と努力を「人生」に傾けたら、凄い、素晴らしい「しあわせな」結果が出るのではないだろうか、と、ふと考えることです。

「努力」は、「実る努力」と「実らない努力」があるように思います。
「実る努力」をみなしている、と思っていますが、結果がも一つ思わしくないときは、「努力の質と量と時間と方向性」を検討する必要がある、と考えます。

2008年8月9日土曜日

「しあわせ」について (3)

*「山のあなたの空遠く 幸い住むと 人の言う・・・」という詩があります。
それで、友達と一緒に探しに行った。でも、どこにも”シアワセ”は見つからなっかた。泣きながら帰ってきた。「山のあなたのなお遠く 幸い住むと 人の言う・・・」と、この詩は終わっています。

*偉大な作家・芸術家であるゲーテ。功成り、名遂げ、お金と名声を手にし、80歳で18歳の乙女に恋をした!?と聞きました。その彼の晩年の感想<僕の80年の人生を通して、”幸福”だと感じたのは全部で一週間くらいのものではなかろうか・・・>
彼が本当にそう言ったのか、誰かが言ったのかよく判りませんが、「幸福」について興味深い言葉だなーと、心に残っています。

*「頓知の一休さん」は、天皇のご落胤と言われ、当時の仏教の堕落を憤って数々の奇行があったようです。が、25歳の頃、琵琶湖に入水自殺を図っている(それも二度も)と何かの本で読み、驚きました。なにかずいぶん悩まれたのでしょうねー。
でも、二度とも助けられ、以後研鑽に励まれ、名僧の誉れ高く、87歳の(当時としては大変な長命です)生涯を全うされました。
80歳で出会った盲目の美女”森女”との恋は有名であります。
また一休さんは、大徳寺納豆を創作されたことでもよく知られています。

一休さんの人生を、幸不幸で測ることは出来ませんが、「死ぬほど悩まれた!!」のは間違いありません。でも助かって<天の力が働いている・・・>沢山の人助けをされた、ということは、生死を乗り越えて得られた「我欲を願わない、世のため人のためを願うまごころの発現!!」と感じることであります。

*京都の銀閣寺を住処とした足利義正(銀閣寺を建てたのは奥さんの日野富子だそうです)ですが、将軍であり、凄い庭付きの立派な家(銀閣寺)に住みながら、よい?奥さんを持ちながら、晩年は”空しい、むなしい!”と言っていた、と何かの本で読みました。
スゴイ”しあわせ”な環境にいながら、”ふしあわせ”を感じておられたのでしょうか・・・。

 やはり「シアワセ」はこころにある!!のですねー。
それを悟ったひとを「覚者」と言うのでしょうか。
覚者と言わなくても、「総て ありがたい!!」という境地に到達したい、と考えるものであります。

2008年8月5日火曜日

「しあわせ」について(2)

 前回、「しあわせ」について「今」考えることをいろいろ書いてみました。
これらは、一応「しあわせ」の条件でありましょうが、シアワセについての焦点の当て方は「一人ひとりみな違う」し、基本的には、「しあわせ」は、それを認識し自覚する「個人のこころ」にあるのですねー。

 誰が見ても「シアワセそう・・・」な環境におられても、本人は、何か「悩みを」抱えていて、”ああ、自分は不幸だなー”と思っていられる方があるかもしれません。
世間的にキビシイ環境の中におられても、”ああ、おれはシアワセだなー・・・”という心で生きていられる方があるかもしれません。
<この場合、前者は不幸であり、後者は幸福なのだと思います>
だから、「しあわせ」は、物や境遇ではなく、一人ひとりの「こころ」の中にあるのですねー。
心も、物も、境遇も、健康も総て揃い、自他とも「幸福」!!と言える、思える状態が理想でしょうが、一部でも整い、それを喜び、それに感謝できる人は「シアワセな人」ではないでしょうか。
喜びと感謝に生きていたら、その「喜び感謝できる条件」は更に増大・増幅するのだと思います。
しあわせ!と思える条件の中に生きていても、それは”あたりまえ”で喜ばず、不平不満で生きていたら、今ある「しあわせ」の条件は次第に減少し、「フシアワセ」な条件・環境が増えてくるのではないでしょうか。

 僕は、戦前・戦中・戦後と「今」を生きて(生かされて)きました。
時代の変化と共に、「しあわせ」にたいしての「感じ方」が変わってきたように感じています。
昔は、物も食糧も衣類も非常に乏しかった。が、人々は助け合い、励ましあい、仲良く生きてきた。
今のような殺人事件はほとんど無かった!!
 今、物も食糧も、電化製品も、車も、パソコンもケイタイも、衣類も、満ち溢れている!!
では、それだけ人々はシアワセか、健康か、仲良いか・・・と尋ねると、どうも”いい返事”は返ってこないのではなかろうか・・・という気がします。

 それでは、物も食糧も無い(少ない)ほうが良いのか?という単純な疑問が湧きます。
「無いほうが良いのかもしれません。
世界中で平和にシアワセに、健康に生きている民族は、ささやかな食糧や衣類を大切にし、争わず、地球の自然を守って生きているようであります。
「先進国?」は、これと全く反対の生き方をし、混迷の度を深めているようであります。
「先進」はほどほどにし、「後進の立派な(自然な)生き方」を見習う必要がある!!と感じるものです。

 「しあわせ」の話が、世界的な話になってしまいました。
物も必要で大事ですが、そのために地球を汚染し、人間同士あい争うのでは、物は無いほうが良いのでは・・・とも考えられますねー。
でも、つつましく、上手に使えば、物は有難い存在であります。
「心も上手に」「物も上手に」使うのが「シアワセ」の根本のようであります。

2008年8月3日日曜日

「しあわせ」について

「しあわせ」とは、小さな虫のシアワセ、小鳥のしあわせ、ペットのしあわせ、野生動物のシアワセ、人間の幸せ、地球の幸せ・・・と色々ありますが、ここでは「人間の幸せ」について考えてみます。

これも、人間個人の幸せ、家族の幸せ、親族や知人友人の幸せ、地域社会の幸せ、国家の幸せ、世界の幸せ、地球のしあわせ(最近では宇宙の幸せ)・・・といろいろありますが、一応「人間」に焦点を当てて考えてみます。

1 衣食住が整っていること
2 健康であること
3 いい仕事(世のため、人のため、自分のためになる)を持っていること
<工場でで一本のビスを作る仕事も”立派な仕事”であります>
4 人間関係が良好であること(家族・知人友人・学校や職場で)
5 経済の安定(ささやかでも欲しいものが買えること)
6 心が温かく、喜びと感謝に満たされていること
7 世のため人のため<地球のため>を考え、少しでも実行できていること

これらが「今」私が考えている「シアワセ」の条件であります。<20年前、30年前にこんなことを考え、少しでも実行していたら、ボクの人生は(運命は)変わっていたのではないかなーーと、ブログを書きながらフト考える次第であります>
<が、今からでも遅くはない!!これらの条件の整備・増強に取り組もう!と考える次第であります>

世の中を見渡しますと、これらの条件が沢山おありの方もおられます。
また、満たされず、悩み苦しみを持った方もおられるのではないでしょうか。
「地球学校」で生きてゆく人間には、「完全にシアワセな人」はいないのではないか・・・と考えることであります。
病気や不幸やトラブルなどは、よりよくなるための「天の試練」なのかもわかりません。
不完全、不十分を受け止め理解して、完全・十分(シアワセ)を目指して日々努力していくことが、「今」地球上に棲息を許されている「人間」の務め<義務!>ではないだろうかと考えることであります。

「シアワセ」は、与えられたものより、苦しんで努力して、そして得たもののほうが、何倍・何十倍の喜びをもたらす!!のではないでしょうか。
現状を認識・分析し、方向性を定め、「夢と希望とシアワセ」に向かって一歩づつでも前進!!と改めて考えているところであります。

「幸福盲」について

今、「幸福の要素」を沢山持っているのにそれに気づかず(不平不満を言って)生きている人が多い?ように感じられます。
体で言えば、目が見えるのは当たり前!と思って、喜びも感謝もしない人が多いのではないでしょうか。
見える、歩ける、食べられる、大小便が出る、考えられる、眠れるなど、みな一応「当たり前」でありますが、これらが出来なくなったときは”大変”であります。
<これら”当たり前”の条件は、個人でも、地域社会でも、国家でも、地球でも、すべてに当てはまることであります>

「当たり前の有難さ」を自覚し認識し、そこに日々「喜びと感謝」を見出す人はシアワセであり、「当たり前のシアワセ」を自覚できない人は「幸福盲」と言っても良いのではないだろうかと考えることであります。
<これは、私のオリジナルか?いつかどこかで聞いた言葉が耳に残っていたのか?>

前回、「幸福の条件」について申し上げましたが、それらがみな揃うのが望ましいと思いますが、「一つあってもシアワセ」なのではないでしょうか<それも無い!と思ってみてください>
その「一つのシアワセ」を喜べる人は”幸せな人”であり、「得ていないシアワセ」を嘆き不満を言う人は”フシアワセ”な人ではなかろうか・・・と考えることであります。

”私は不幸だ!”と言っているひとでも、「心の目を開けば」今そこに「シアワセの要素」は沢山あるはずであります。
いいほうを見て喜び感謝するか、良くないほうを見て不平・不満・愚痴(嘆き・恨み??)
の日々を送るか・・・が、それぞれの運命を構成するのではなかろうかと考える昨今であります。
<今、同じ人間で、いいものが半分、良くない(好もしくない)ものが半分あるのが「人間」ではないだろうかと感じさせられています>

判ったような、判らないようなことを言っていますが、「人生」「シアワセ」について悩みをお持ちの方の
わずかな指針・参考になればシアワセ!と思っています。
私も、日々努力中であります。