「喜び」は、精神的に、肉体的に、物質的に、社会的に”いい状態”のときに心の底から湧き出る感情でありましょう。
「喜ぶ」は、喜びを感じた心の感受性と表現でしょうか。
「喜べ」は、いいものや幸せがあるのに、それを感じない人に言う言葉でしょうか。
「喜ばせる」・・・自分が、今の”いいもの”を感じて喜ぶことは大事ですが、自分以外の人を喜ばせることも、「この世」を生きるためには大変大切なことではないでしょうか。
「喜び」は、子供たちが食卓を囲んで、”おいしい、おいしい”といって食事をするとき・・・といった歌人があります。
”喜べと言っても、なにも喜ぶようなことはないで”(ないのに喜べない)という人もあるでしょうが、ほんとにないのか!?
”心の目”を開いたら、沢山の真実が見える!と説く人もあります。<真実の見えない”真実盲”、幸福の見えない”幸福盲”などもあるのでは・・・?>
”生きている、「今」を喜べ!”といった人があります。
「息ができる」ことはあたりまえのようにみな思っているのではないでしょうか。が、喘息で息のできない人から話を聞きました。喘息の発作のときは、息を吸うのも吐くのも苦しい。注射で息ができるようになったとき、息ができるのがこんなにありがたいものかと感じた!とのことです。
息だけではありません。歩けるのも、手が動くのも、胃腸が順調に働いて、消化吸収したり、便を作ってくれたり、心臓がちゃんと動いてくれたり、頭が正常に働いてくれたりと、体のことだけを考えてみても有難いことばかりです。これらの一つでもできなくなったと考えてみてください。「当たり前」がどんないに有難い状態かが良くわかるはずです。
身体的に、精神的に、社会的に、「今ある良いものに感謝」して(喜んで)生きていれば、いい状態はおそらく一生続くでしょう。
”当たり前じゃー”といって喜びと感謝を忘れ、気ままに好き勝手に振る舞っていたら、或る日あるとき「大変な目」にあう可能性も増えてくるのではないでしょうか。
でも、一度に急に大変な事情が起こってくるわけではないようです。「軽い異常」として、”天の忠告”は何度も来るようです。その忠告を素直に受け止め、「自然」を中心とした対応を心がければ、その人は、また、「当たり前」のいい状態が得られるのではないでしょうか。
忠告を無視し、自我を通し続けていると、事態は悪化の道をたどるのではないでしょうか。
異常にならない、なっても気をつけたら好転する、「もと」の一つ
は、「喜ぶ、喜ばす」ことにあるのではないかと考えることです。
立春はすぎたのに、大変寒気の厳しい日が続いています。皆様、保健に充分お気をつけください。
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