2010年8月22日日曜日

沖縄 興南高校 春夏連覇(平成22-8-21)

「松坂以来 12年ぶり、史上6校目、春夏連覇!!」(サンスポ)
「あっぱれ!!島袋」(サンスポ)
今年の高校野球が、猛暑・熱戦のうちに終わり、こんな記事がスポーツ紙を飾っていました。
熱戦の見方・感じ方は人さまざまでしょうが、感じたことを書いてみます。

「入学してきた頃は小さな種だった選手たちが、毎日こつこつ練習して芽を出し、甲子園で大きな花を咲かせてくれた。日に日に成長する選手を見ることができて、本当に幸せだった」(興南・我喜屋監督)(読売8・22朝刊)

「夏に向け、島袋は「結果を出さなければ、努力したことにならない」と己を追い込んだ。1日200球の投げ込みでは、試合終盤を想定したラスト30球でちぎれんばかりに腕を振り、落ちる球の精度向上に励んだ。その成長は、ライバルたちの想像を超えたようだった。
猛暑に疲れを見せず、6試合51回で計783球を投げ切ったエースが、練習の成果を出し切った。狙って遂げた春夏連覇だ」(読売 クローズアップ)

深紅の優勝旗は、米国統治下だった1958年に首里が初出場して以来の悲願でもあった。
「やってきたことは間違ってなかった」と優しい笑みを浮かべた1メートル73、65キロの左腕が、甲子園に輝かしい歴史を刻んだ(読売 クローズアップ)

”春夏連覇は平坦な道ではなかった。慢心しそうになった時は、我喜屋監督(60)の言葉が戒めとなった。選抜優勝翌日、朝の散歩中の桜の木の下だった。
「満開の桜を支えているのは枝で、それを支える幹がある。でも一番大事なのは、それを支えている根っこ。もう一度根っこから始めよう」(22、8,22 サンスポ)

一から下半身の強化に励んだ。30キロのバーベルを背負ってのスクワット。
終えると、チームメートがへたりこむ中、黙々とグラウンド脇にある約40段の階段を右足だけで跳ね上がり、踏み込む足を鍛えた。
猛暑日が続いたが、熱中症対策に効果があるナトリウムとマグネシュウムが豊富な宮古島産の「雪塩」をイニングの合間になめた。しょっぱさが沖縄の先輩の汗と涙に重なった・・・。(同上)

沖縄 興南高校の優勝記事から、目に(心に)残った記事を抜粋してみました。
第一回戦から優勝戦まで、すべての戦いに汗と涙が刻まれており、ドラマの連続であります。
一回戦で敗れたチームも、都道府県のナンバーワン チームです。凄い!のです。関係者は、これからも胸を張って、ニッコリと生きてほしいと思います。

「体の鍛錬」は人さまざまです。島袋投手の真似は誰でもができるわけではありません。
「筋肉・骨の鍛錬については、稿を改めて書いてみたいと考えています。

2010年8月6日金曜日

広島 原爆投下から65年

僕は、、昭和20年8月6日午前8時の原爆投下の前の晩、夜の八時発の列車で、広島から一時間ほどのところに集団疎開しました。<もう一晩広島にいたら、次の朝は影も形もなくなっていたでしょう>
その日、たまたま用事で広島に行き原爆にあった人、その時刻に広島に行く予定であったが、都合ができ、行かなくて助かった人、と、原爆はさまざまな運命を演出しました。
<原爆以外でも、航空機事故とか列車事故、交通事故などで、生死の明暗を分ける事件は沢山ありますが、なぜある人は助かり、ある人は亡くなるのでしょうか??>
<演出者は誰??>

私は、子供の時から今日まで、考えたら、5回ほど「生死の境」を経験しています。
若い時はそれほど感じませんでしたが年と経験を重ね、「人間」「生と死」「運命」などを考える機会が増えるにつけて、その「不思議さ」「神秘性」に感心・感嘆するばかりの今日この頃であります。

原爆投下は、沢山の非戦闘員の命を奪い、後遺症を残し、市街地を一瞬に焼け野原としたわけでありますが、戦争を早く終結させ、結果的に沢山の人命を助けた、というメリットを強調する向きもあります。<カミサマは、どのように結論づけられるのかなー!?と考えることです>

明治22年の「帝国憲法」発布から約60年、日本は三回の大きな戦争をしています。
昭和20年の「平和憲法」から60数年、日本は一度も戦争をしていません。
<シアワセの極みですが、シアワセに慣れて、最近は”平和ボケ?”の声も耳にします>
世界中を見渡せば、沢山の国家が戦争に明け暮れています<日本も、400年前は、日本人同士で殺し合い<戦国時代>をしていました!?>
「人間」というのは、不思議なイキモノですねー。

人間一人ひとりが生命の尊厳性を悟り、お互いの生命を尊重し、地球上のすべての人々が、仲良く助け合い、みんな笑顔で生きる日が早く来るように、願い祈るものです。