2011年4月30日土曜日

「生と死」 「生命学」

「生を明らめ 死を明らめるは、仏家一大事の因縁なり」とは、永平寺を開かれた(1244年)道元禅師の言葉です。仏家でなくても、地球上に生を受けた者すべてにとって最重要なことではなかろうかと、折々に考えることです。

が、これは、なかなか大変なことですねー。

人間が「自分」を意識するのは4-5歳のことでしょうが、それでも、自分と、親と、身近の友達を認識するのがやっとでありましょう。
<お釈迦さんは、生まれてすぐ、天地を指差して「天上天下 唯我独尊」と言われたそうですが・・・>
現代社会では、成長するにつれて、中学・高校・大学と沢山の勉強をさせられますが、真の生命学や死生学は、一般の授業のカリキュラムにはあまり出てきません。
現代の科学で証明ができないことが、学問の体系に乗らないからだと考えますが、世界的に見れば、「神霊学」とか「神智学」として沢山の国で、大学で、研究されているようであります。

「生と死」を自意識に乗せて真剣に考えたのは、日本では”戦国時代”からではないかという気がします。戦争が多発した。殿の命令で、いつ戦地に赴くかわからない。(中には、殿から”死を賜る”ということもある!?)
だから、「武士道とは 死ぬことと見つけたり」(葉隠)と言われたのでありましょう。

そのあと、「死」に真剣に直面されたのは、昭和19年ごろ(終戦前)の特攻隊の方々でありましょう。
<生死の極限状態に置かれながら、自分のことは思わず、国や家族のことを願われた心情は、九州や長野に、遺書として残されています>

今、日本におきましては、平和であります、豊かであります、自由であります。
<六十数年前には、これら、シアワセの条件は大変少ないものでありました。が、ココロは、現代よりも幸せであったのではないだろうか・・??という気がしています。最近やたらと増えた殺人事件も、その頃はほとんどありませんでした>
それは、「欲(物欲)」が無かった(少なかった)からではないだろうか、と今、ふと考えています。

生命の神秘、人間は奇跡的存在、につきましては、以前に書きました。
現代の唯物論社会では、人間は肉体であるととらえていますが、「人間の本質はイノチ(物質の肉体の奥にある真実の生命体)」なのではないでしょうか。
「イノチ」が、肉体という地球服をまとい、ココロを使い、言葉を発し、修行のために「社会」を生きてゆく・・・のが「人間」の真実ではないだろうかと考えることです。

キャンデイズの一員として日本中知らない人はなかった田中好子さんが、55歳で乳ガンで亡くなられました。39歳で発病されながら、16年、精いっぱい生きられました。
<ちなみに、ガンは、手術をして5年生存したら”治った!”ということになっているのですがねー!?>
亡くなられる少し前、”私も一生懸命、病気と闘ってきましたが、もしかすると負けてしまうかもしれません。そのときは必ず天国で、被災(注、東北大震災の)された方のお役に立ちたいと思います。それが私の務めと思っています・・・”というメッセージを残されています。

自分の生命が燃え尽きようとしているときに、こんな(人類救済の)言葉が出るのは、「菩薩」ですねー。
沢山の人を喜ばし、しかも死の寸前に、世のため人のためにと願う言葉を出すようなスゴイ人が、どういてガンで死ななければならなかったのかと、カミサマに尋ねたい心境であります。
<私は、今この文章を書きながら、ふと、”この体験で、彼女の一つの「業」が消えたのかなあ・・?”という気がしています>

学問的なことは何もわからなくても、太陽を拝み、空気や水や食料に感謝し、人々と仲良く、日々、「有難う、ありがとう!!」と生きる人は、生命の本質を体得しておられるのかなー、とも考えることです。